昭和49年01月17日 朝の御理解



 御神訓 一、「出産の時よかり物によかるより、神に心を任せよかれよ。」

 ここでは神様任せと云うことを申します。中々任せると云うても 只むやみに任せる事は出来ません。やはり信ずるからこそ任せる事が出来るんです。神様任せ、神様任せは、親先生任せと。親先生任せになると言う事は、即神様任せだとも、ここでは云われます。そこで、親先生が云われる事を、本当に信じなければ任せられません。お道の信心の大事なとこと云われる、取次ぎ、取り次がれる仲と。
 云うならば信者と取次者という仲にも、この信じ信じられると云うものがなからなければならん訳です。でないと本当の取次ぎの働きと云うものは生まれて参りません。ですから場合には度胸が要る事もあるし、場合には無謀だと思われる様なこともあります。そこんところを教祖様は、ままよと云う心にになれよと仰せられる。このままよと云う心が、度胸でありまして、ままよとは死んでもままよの事ぞと云うくらいです。
 してみると、そこんところは、おかげが受けられるとか、受けられんとか、思う様になるとか、ならないとかいうのは、度外視してからかかるという事。そこから、段々任せることの有り難いこと、または素晴らしいこと。人間の知恵力の、本当に小さい、浅い、本当にこの神様に委ね任せさせて頂けれる心を養のうていくという事が、お道の信心だとさえ云うてもよいと思うです。
 私は、今日は、勿論これは出産の妊産婦に対する御理解でしょうね。出産とはっきり仰っておられる。出産の時よかり物によかるより、神に心を任せよかれよと、こうある。一つのおかげが産みなされると云うこと。それには、必ず、出産に十月十日という月日が要るように、一つのおかげが頂けると云うことにもです。やはり時節と云うものがあります。物事、時節に任せよとも仰る。そこを任せきって行く。その任せきって、時節を待つと云うこと、必ずそこには催しがある。
 出産の時にその前には、出産の催しがある様に。だからその辺のところを、大事にしなければならん。またその時に驚いてもならん、怖がってもならん。いやむしろ出産いよいよ間近かだと分からせて貰うて、心の体の安静を伴わなければならない様に、おかげが一度産みなされて来ると云う前には、必ずそうした働きがあるもんです。例えば、どうもこの頃、雨模様になって来たという様に、お天気んよかのに、パーッと雨が降る様な事はないでしょう。やっぱりそこに、天地の催しと云うのがあってです。
 蒸し暑いとか、または、一天俄かにかき曇って来るとかと云う様にです。その前には、そうした天地自然の催しと云うものがあって、お湿りがあるように、私共の、そういう自然界と同じ働きが、私ども小自然であるところの人間氏子の世界にも、同じ意味の事が云えれるのです。それを信心が無い人達は、催しがないと、その催しを、わざわざ人工的に作ってでもという様な働きもある訳であります。一番素晴らしいのは、ですから、神様に心を委ね任せて、そしてそれを産みなして行く働きというおかげ。
 昨日、午後の奉仕の時でしたか、十八年振りにブラジルから帰ってきた。私の方の池尻の方の遠い親戚に当りますけれども、近い親戚よりも、こちらに居る時には、私の方もお世話になりましたし、そういう田主丸の上の麦生の育ち。一家を挙げてブラジルに移って行きました。丁度十八年前です。それに昨日、突然帰って来ました。本当にお互い、あちらも十八年経っておりますから、お爺さんになってますよ。
 私もお互い途中で会うたっちゃあ分からん位に、こう肥えちから。ようとこうやって、お互い見よったら、ああ池尻さんだなと分かったんですけれど。それであちらの、大変苦労した話から、今日、どうやらこうやらやって居る話を、いろいろ聞かせて頂いたんですけれども。私は、本当に神様の働きの素晴らしいという事を、天地が自由になるなと云うことを、思わせて頂いた事は、昨日の朝着いてる。三十六時間飛行機でかかってます。丁度私が、二日位前にです。
 合楽教会が次々と修行生の方逹か出来ますから、一つ狭い日本でどこで布教する、ここで布教すると云ったって、色々問題ばっかりあるから、それこそ問題のない様な処へね。第一私は、ブラジル辺りに一つ出したい。それもこの前のお道の新聞に、ブラジルの方へ布教したいと云う本部の願いがあって、わざわざ視察に本部の偉い先生が行っておられます。その事が書いてございましたから、私の心が急に私の思っておる時でしたから、ほううち辺りでも本当にブラジル辺り迄でも。
 一つ布教にそれこそ世界に真の平和とか、和賀心時代を創るとかという位ですから。それは日本人に限った事じゃないけども、先ず日本人から手掛けて行かにゃなりませんから、ブラジル辺りには随分の日本人も居る事だし、特にあそこは難儀な人達が多いところだから、ブラジルはいいなと云う思いを、二日程前にある人に一生懸命話した時なんです。いわゆる、前から思うとっんかも知れませんけれどもです。日本に帰ろうと云う思い。急に思い立って来てるです。
 三十六時間云うならば昨日の朝、こちらに着いて今日ちょうど私が一生懸命その事を思いよる時分に、十八年振りに帰って来ると云うね。その催しがあってるですやつぱり。そして帰ってほらいっちょどうでんこうでん、あちら辺りもそげん云や金光様がないごたるからね、サンパウロと言う所におって今食料品の製造やら卸やらをやってる。そりゃ及ばずながら一つ尽力させて貰うけど、どうでんこうでんいっちょあちらへ布教所を造りなさいと云った様な話で。
 又改めて出直して来る事と思いますけれどもそう云う話があった。これは丁度正月の四日の日でした。先生方のお節を致します。そのお節の席上で、私は、たまたま、今の思いが、アメリカやらハワイやらにも、一つ布教したいと私は思うた。布教所を造りたい。それには、丁度もってこいの、相応しい先生が必要ななんだ。それで私は久富先生に言うてから、久富先生どうのいつちょ、アメリカかハワイに、あんただん布教する気はなかのち、私が云いました。
 けどもあんた方は大体か無精者筋じゃけん、ハワイ辺りが兎に角一年中あそこは楽なとこんごたるけん、あそこはどうのち私が。親先生あなた無精者、無精者ち私はいっちょん無精もんじゃないです。いやあんたは無精者じゃなかばってん大体そういう系統じゃ。大坪家もそげな風です。だからちゃんと座っとりゃよかごたる風な事をさせとる。と云うてですね、笑い話して話た事でした。
 そして本当にハワイ辺りなら良いですねという話をしておりましたら、それから二三日致しましてこの頃から、ハワイに旅行をしたお道の先生がですね。あちらのハワイの教務所の先生から、どうでもハワイに一軒しかもそれは、合楽教会が今大変御比礼が立ってるという話だから、あちらの何かよか修行生はなかろうか。どうでもこうでもわざわざ行ってからでも、一つ勧めてくれないかという話が、その話を持ってわざわざ山口から見えました。それで私久富先生を呼んで、向こうの話を聞かせて頂いたんですよ。
 それには条件がある向こうには。第一英語が出来なければならない。それで久富先生達が夫婦親子三人で、博道君と三人で布教すると。それがこの頃からです丁度、先生の補教の事がもう年限が来てから、普通は大体補教から教師になることは出来んのです。けれども今ならば出来るから、教師の資格を取られるならば通知をしてくれという連絡が、二三日前あっておりました。大体補教になったが最後教師ににゃなれないという、一つの規則があったんです。私はそれを知ってました。
 ところが御本部から、そういう通知を受けたばっかりでした。だから検定で通られるから教師の資格を取って、そしてあんた方の奥さんは英語はべらべらで、通訳をされる位ですから先生の奥さんが。それに若手の博道先生が親子三人で行くならば、とても北野辺りに居るよりよかばい。そら先生も大変びっくりされたけれども、四日の日に話とってから実際のことが、そういうふうにして起こって来た訳です。しかもわざわざ山口からたったその事の為に見えたです。
 泊まりがけでどうでんこうでん返事を頂いて帰らんならんと云うて一晩泊まって帰られました。けども返事と言う事までは行きませんでしたけれども。翌る日久富先生が見えてからです、やっぱ帰って話されたんでしょう。そしたらあぁたハワイの教務所から、布教に出そうと云うておる、そこに出して貰いたいという処が、あちらのお父さんがそこで成功されたとこだそうですね場所が。はぁ恐れ入ってしまうなぁ驚いてしまうな。それは布教するしないは別としてですよ。
 ブラジルの話しにしろハワイの話しにしろです。本当にそういう催しがあって居ると言う事です。ですからその気になりゃ、本当にブラジル布教が出来るでしょう。久富先生あたりが出られりゃ、本当におかげを受けるだろうとこう思います。そういう催しに催されて、そこでここでは物によかるより、神に心を任せてとこう云うておられます。物には頼るなと。よかるものと云う事はお産をする時には、何かにしがみ付いたりこうもたれかかってすると云う事でしょう。
 だから是はどう言う事かと云うとです。私共でもそうです。私がいつも総代さん方に申します様に、私はあんたどんにはいっちょん頼っとらんよと。私が頼る所は神様だけだと。沢山な信者が居って、沢山な幹部の方達が居って、そして初めて一つの組織的なものが出来て、合楽教会が運営されておる訳ですけれどもです。私はその人逹に一つも頼っとらん。これは本当にそうです。かと云うてですよかりものば、そこへ持って来て貰ったら、そのよかりものによかると言う事は、有難い事なんです。
 わざわざよかりものを追い求めて、こうすると云うのではなくて、どうでんあんたに頼みますよ、あんたが居って貰わにや私は困ると言う様なものじゃなくてです。総代さん方か親先生どうぞと云うて来るならば、私はこうやって就くと云う。例えは脇息なら脇息によかろうと思う。そすとその脇息を誰かがヒョッと引いたら、こちらがひっくり返らんならん。だからよかるものは当にはならんけども、向こうの方から脇の下へこう持って来るならばです。それによかったが実を云うたら一番素晴らしい事なんです。
 無茶苦茶になる。ブラジルに何も解らん所に行くと云うよりもです。昨日池尻さんの話を聞いてから、ちょっとブラジルで一番良い所でしょうね、サンパウロと言う所は。サンパウロと云うけども、日本の広さはあるそうですから。けれどもそこで先生あなたの所から布教をするなら、そげな家を捜しもして上げましよう。また信者も紹介しても上げましょうと。向こうからそう云うてくれる様な、例えば働きと云うものがですよ。しかも私が思うた事が、もう何十時間後にそこに実現しておると言う事なんですよ。 
 そんなら私と久富先生とのハワイ行きの事もそうでしたよ。あら昨日一昨日じゃったのゃ、久富先生にハワイに行かんのち言うたのは、と云うのがその翌々日には、わざわざその事のために、どうでもこうでもと云うて見えておられる。そんなら向こうに葉書を出しても良いですかと電話かけても良いですかと。そりゃまぁあなた方のよかごっちゃけれども、その合楽の修行生の方で。
 適当なこうして久富先生一家が挙げて行かれるなら、行かれる条件の揃うた方が居られると言う事だけは、云うてやんなさったっちゃよか、行く行かんはまあ別としてと、まぁ云うた事でしたけれどね。そういう催しに催されて行くと言う事は、よかるものにはよかるなと仰るけれどもです。実際脇の下まで持って来てもろたら、よかった方が良いという事です。はぁもう明日食べるもんがないお米がない。さぁこっちから明日食べるとなかけん、米一升貸して下さいと言う事は要らんけれどもです。
 向こうから使うとって下さいと云うて持って来るなら頂いても、いやむしろそれがおかげでしょう。本当に天地の親神様の、久富一家なら久富一家をお育て下さると云うまでにどういう、ほんなら何十年も前からです。云うなら奥さんのお父さんがです、その処に居られた。そこで成功された処だ。だから久富の家には一番ゆかりの深い、ハワイの中でもと云う事でしたと云うて、翌日久富先生がうちに話たのとも、腹決めたのとも又奨めもしませんでしたけれども。その話をそういう風に。
 けれども親先生私は昨日親先生から頂いた時には、胸がドキーッとしましたよて云う位に、何故かと云うと催されとるから感じん訳にいかん訳です二日前から。云うならばこれは、ブラジルとかハワイとかと、まぁとっぴな事の様ですけども、そういう働きと云うものがあっておる。云うなら十八年も前から、合楽がブラジルに布教する時には、一家を挙げてあちらに、私どもの親戚筋になる人が行って、艱難辛苦してからようやく、おかげで車も四台程買わせて頂いて。
 使用人も大分使わせて頂いて、どうやらこうやらやっていけれる様になったと言う様な所。お世話でもするならし良い様な、状態になって居るという事です。そういう催しが始まるのに、十八年間かかっとると言う事、厳密に云うたら。例えば久富先生の奥さんのお父さんが、何十年かなられましょうけれども、何十年前からそういう一つの催しと云うものがあって、久富一家が艱難辛苦して修行をしながら、それこそ道の教師にでも、親子でお取立て頂くという程しの、働きがあっておると言う事。
 だからこっちがその気になりゃ催しに催されて、そしてそこに出産の大みかけど言う事になって来るんだと云う。それを信じん訳にはいけない程、胸がドキッとする程の様なことがです。私どもの周辺には、一切の上にあっておると言う事です。ですからそれを私どもは、それに便乗すると云うか、それに委ね任せると言う所がです。神に心を任せてと言う事。又はここではそれを神様任せと云う。
 愈々そういう時にああそればってん、こん年で行ってからどげな風になるじゃろ。久富先生あんたが八十まで、まぁ十年間長生きしなさい。あんたが十年間長生きしときゃ、御神意もお伺かいでも出来る様になる。そうすりゃ博道も嫁後も貰って、あちらの言葉やらも段々分かってくるようになって、先生あんたが十年間長生きすりゃハワイ布教が夢ぢゃなかばいと言うて、そん時私話した事でした。
 ですから催しに催されてそう言う事になる。だからその気になればそこに安産の大みおかげという事でありますから、愈々そういう本当の御神意がそこに成就するか、成るか成らないかと云う時にですやっぱり度胸が要ると。親先生がああ仰っておられるから、一つ本気でその気になって見るかと云うようなです。その時にそういう働きを受けて立たせて貰う。こりゃやっぱり度胸のいる事なんです。
 なぜかと云うと、久富先生の場合なんかは、子供達がそれぞれ立ち行く様になって、子供達に掛って行きゃどの子でも一通り、親を見るぐらいな事が出来る様になっておる所ですから。ただ二番目の博道さんだけがまだ現在の様な状態。ところがその人がお道の教師の資格を頂いておるのですから。是はどうでも博道にかかるのがほんなことじゃろう。そして親子三人であちらへ行くのが、御神意じゃろうと云うその腹が出来たら、そこからおかげが受けられる。
 只いきなりにいっちょハワイに行こう、いきなりにブラジルに行こう。それは私は是は、勇猛心の様であるけれども、是はあまりの事だと思うです。神様が水を向けて下さるのであらば、そういう神様が任せろ任せろと仰っても、任せなければ任せて度胸が出来る様な働きが、その前後に必ずあると云うことを思わにゃいけません。例えば本当に今日は綾部さんが参っとるから、綾部さんの場合でもです。本当にこりゃ日田の綾部はこれでしまえるかも知れんという様な噂まで立つ様な問題があった時でもです。
 そういう時に親先生が右と仰りゃ右、左と仰れば左と云うて、任せきられたからこそ本当に人がたまがる様なおかげにそれがなったんです。けどもそういう大変な事を任せる前後にはです。やっぱり小さい事ながらもお任せしときゃ間違いない、お任せするが一番楽だと言う様な自分の我力、我が力で産むと思うと言った様なものが、段々なくなってきているです。愈々大きな事を任せんならん時にはです。その稽古がずうっと出来てきておる。所謂催しに催されて来て、それがなされる訳です。
 神様任せと言う事は、ここでは親先生任せ。任せると云うてもです、信じずしておいて、任せれる筈はない。それまでに信じさせて頂かなければ居られない様な働きを受けてきておるから、愈々の時に任せられるのであります。そこん所を私は今日は、出産の時の事だけじゃない。おかげが出産するおかげが産みなされるという前提にはです。必ずそういう催しに催されての働きがある。
 その催しにこちらが便乗されるだけのです、信心を頂いておかなければ、愈々おかげが出産間近と云うても、それが流産に終わってしまう様な事ではいけないでしょう。そこにそれこそ玉の様なおかげが、神ながらなおかげが頂けてこそ、神様もお喜び私どもも有り難い。そして愈々神様任せになっときゃ大丈夫と云う、それこそ委ね任せきった生活が出来る。それを安心の生活と云う。その安心の生活の出来ると言う事がです。神に心任せよかれよと言う事だと思います。
   どうぞ。